INDEX
NO−1
    
  ■日本ガス事業発祥の地 ■近代下水発祥の地
  ■ガス灯発祥の地 ■近代水道発祥の地
  ■街灯点火の地 ■日米和親条約締結の地
  ■アイスクリ−ム発祥の地 ■電信創業の地
  ■近代街路樹発祥の地 ■電話交換創始の地
  ■写真開祖の地 ■日本バブテスト発祥の地
■乗合馬車発祥の地 ■塗装業発祥の地

日本ガス事業



[日本ガス事業発祥の地]碑
場所:桜木町駅のそば・本町小学校校門前。


日本でのガス灯の始まりは明治5年(1872年)。
桜木町駅のそばの本町小学校と関内・馬車道には
ガス灯および記念碑が建てられています。


記念碑の説明文
〜日本ガス事業発祥の地〜
明治3年、高島嘉右衛門によって中区花咲町の
この地に、ガス会社が設立された。
 高島はフランス人技師アンリ・プレグランを招いて、
明治5年9月29日、神奈川県庁付近および
大江橋から馬車道本町通りまでの間に
ガス街灯十数基を点灯した。
 これがわが国ガス事業の発祥である。

 明治25年4月、横浜市瓦斯局となり
昭和19年11月、東京ガス株式会社になりました。

ガス灯発祥



[ガス灯発祥の地]碑
場所:馬車道の関内ホール前。




記念碑の説明文
〜日本で最初のガス灯〜
安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋
文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に
拡がったものも数多くあります。
ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日
本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯さ
れ、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部
は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人によ
り製造されたと言われます。 このたび、横浜市市民文
化会館(関内ホール)新築完成を祝って、当時の型をモデ
ルとしたガス灯を復元設置しました。 壁面レリーフは、
横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治
末期の馬車道です。

昭和61年9月27日
馬車道商店街協同組合

山下公園入口のガス灯
街灯点火



[ハマの街灯点火の地]碑

勝烈庵・馬車道総本店]の玄関の右側に
建っています。


場所:[勝烈庵・馬車道総本店]の玄関。
浜っ子にとっては有名なトンカツ屋です。
アイスクリ−ム発祥



[アイスクリーム発祥の地]碑
「太陽の母子像」
場所:馬車道関内寄り




日本のアイスクリームは、明治2年(1869年)5月9日馬
車道で売られたのが、第一号といわれています。
当時は「あいすくりん」と言ったそうです。

「アイスクリームの日」には馬車道で無料配布されます。
無料配布は1978年に始まりました。

記念碑の説明文
〜太陽の母子〜
  「横浜沿革史に、明治二年六月馬車道通常盤町五丁
目ニ於イテ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス、
と誌るされています。
日本のアイスクリームの誕生です。」

相生本店

当時の味を忠実に再現したのが名物の『馬車道あい
す』。材料は卵と砂糖、牛乳のみ。ほのかな甘さと卵黄
の香り、さらりとした口どけが印象的です。


「横濱馬車道あいす」
近代街路樹



[近代街路樹発祥の地]碑

この碑は、1984年(昭和59年)6月2日、
開港120周年を記念して建立された。

記念碑の説明文
〜近代街路樹発祥の地〜
「街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の景観
的魅力を向上させる為に発達したものであり、参道並
木、街道並木など、いわゆる地方並木とは区別されてい
る。日本における街路樹は、明治以後、欧米都市の影響
を受け、樹種の選択、植栽手入法の改良などによって、
著しく進歩、普及した。1867年(慶応3年)、開港場横浜
の馬車道では、各々の商店が競って柳と松を連植した。
これが、日本での近代的な街路樹の先駆となった。
1872年(明治5年)になって、馬車道に 日本最初のガ
ス灯が点火されると、この街路樹はさらに美しく映え、夜
の涼を楽しむ人々で賑わった」


馬車の往来による危険防止のため、街の景観や緑化を
意図して、松や柳が植えられた。これが街路樹の始まり
だそうです。


場所:馬車道広場
写真開祖の地



[日本写真の開祖]碑
像のてっぺんにダゲレオタイプが鎮座しています。

場所:馬車道の県立歴史博物館前。

下岡蓮杖
1862年に日本で初めて写真館を横浜で開業。

下岡蓮杖は長崎の上野彦馬とともに日本の商業写真師
の草分けとして知られているが、この碑は彼の写真館が
弁天町にあったことから彼の功績を記念してここに設置さ
れています。

下岡蓮杖は伊豆の下田に生まれており、開港後に下田
に着任したハリスの給仕となって、オランダ人通訳ヒュー
スケンから写真を学んだのだと云われています。下岡が
弁天通り沿いに写真館を開いたのは上野彦馬が長崎に
写真館を開いたのとほぼ同時期で初めは迷信に惑わさ
れて日本人客は少なかったそうですが、次第に繁盛して
いったといいます。



当時の下岡蓮杖の写真館。
乗合馬車



[牛馬飲水槽]
場所:馬車道・十番館(レストラン)。

[馬車道十番館]
入口右側に写っているが牛馬飲水槽です。

当時は万国橋付近に船が停泊し荷物や人々を
馬車などが吉田橋付近まで運んでいた為、
その道を馬車道通りというようになった。

牛馬飲水槽の説明文
〜牛馬飲水槽〜
この牛馬飲水槽は大正6年、当時横浜の陸上交通の主
力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会が現在
の横浜市磯子区八幡橋際に設けたものです。このほか
中区の生糸検査所、西区高島町駅前久保山のガ−ド下
としました。また荷馬車協会には三千頭の牛馬がいて夏
ともなればしゃれた麦わら帽子をつけ気どった足どりで荷
物の運送をしました。
昭和四十五年十月
横浜史料保存会


馬車はニッセイ同和損保ビルの玄関
ウインド−に展示してあります。
近代下水



[卵形下水管]
場所:山下町の横浜市中土木事務所の玄関。

説明文
〜横浜の下水管の始まり〜
ここに展示の構造物は、昭和56年2月に中区山下町37番地
先から発掘された卯形下水管である。明治3年に関内居留地
内全域に陶管を埋設した。これが、わが国最初の近代的下水
管であった。その後、明治14年からこれをレンガ造りの下水
管に造り変えた。その断面が卯形をしているので卯形管と呼
ばれる。この時の卯形管の一部は、中華街南門通りで現在も
使われている。


[明治時代の下水管]
説明文
 この陶管は明治時代に、明治32年まで関内居留地であっ
た地域(現在の中区山下町と日本大通り)に埋設された下水
管の一部で昭和57年2月に山下町のシルクセンター前で発
掘されたものです。

場所:山下町の横浜市中土木事務所の玄関。



[レンガ造りマンホールと下水管]
レンガ造りマンホールと下水管・ガラス越しに
見ることが出来ます。

場所:開港広場


写真の説明文
 〜明治10年代に築造された
レンガ造りマンホールと下水管〜
   (国登録有形文化財)
明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現
在の山下町と日本大通りの一部)一帯で下水道改造工
事が実施された。卵形レンガ管と陶管の下水道が整備さ
れた。その下水幹線7本とマンホール37ヶ所はレンガ造
りで、材料のレンガは、東京府小菅の東京集監のレンガ
工場に注文して築造されたものです。設計者は東京大学
理学部第一回卒業生、当時神奈川県土木課係用掛の三
田善太郎氏で、これは日本人が設計したわが国最初の
近代下水道と言えるでしょう。このマンホールは明治15
年頃築造されたもので、昭和57年4月にこの公園の整
備中に発見され、当時のままの状態で保存されていま
す。平成10年9月に下水道施設ではわが国初めての国
登録有形文化材に登録されました。

  横浜市下水道局 平成10年9月
近代水道



「近代水道発祥の地」の碑
場所:野毛山公園内。

パ−マ−の銅像の下に、創設に貢献した人達
をたたえる碑文が書かれています。
横浜水道創設100周年を迎えた昭和62年4月に
建てられました。


[日本近代水道最古の水道管]
場所:野毛・ちぇるる(JRA馬券場のそば)広場

記念碑の説明文
〜日本近代水道最古の水道管〜
 明治20年(1887年)に最初の近代水道がイギリス人パー
マーの指導によりここ横浜の地に誕生しました。相模川と道
志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、この地に運ばれ
た水は浄水され、市内に給水されました。
 この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設さ
れていて今も働き続けています。 当時の水道管を利用して
造られたこの記念碑は、パーマーを始め、多くの先人たちの
偉業を讃え建立したものです。


[獅子頭共用栓とブラフ溝]
場所:開港資料館 中庭
説明文
〜獅子頭共用栓とブラフ溝〜
 この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道
(明治18−20年)創設時市内各所に配置されていたも
のである。当時家庭内に蛇口を引く例は少なく、路頭の
共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期60
0基がイギリス・グレンフィールド社から輸入された。
 また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路遺
構に使用されていた石材を再利用した。

日米和親条約



[日米和親条約締結の地]碑
場所:開港広場

記念碑の右にある説明文
〜日米和親条約締結の地〜
安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米代表が横浜
村の海岸で会見、和親条約を結んだ。これは、神奈川条約と
もいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。
歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の
付近である。

開港資料館
日米和親条約締結の地として有名な玉楠の木を
中庭に抱き込むように建物が造られています。



[開港広場]

電信創業



[電信創業の地]の碑

場所:横浜地方検察庁の入口左側。


説明文
〜電信創業の地〜
明治2年(1869年)12月25日、この場所にあった横浜
電信局と東京電信局の間に、わが国ではじめて電報の
取り扱いが行われました。

昭和38年12月25日
日本電信電話公社
電話交換



[電話交換創始の地]の碑
説明文
〜電話交換創始の地〜
明治23年(1890年)12月16日、この場所にあった横浜電
話交換局において、横浜と東京間および市内にわが国で初め
て電話交換業務が開始されました。


<拡大>

日本の電話交換業務は明治23年(1890年)12月16
日、横浜と東京間および市内で行われたのが始まり、開
始時の加入者は東京155人、横浜45人だったそうで
す。

場所:「横浜電話交換局」だった場所のビルの壁。

日本バブテスト発祥の地



[日本バブテスト発祥の地]碑

場所:元町から山手に登っていく代官坂の途中左側。


この場所の上は、以前は横浜外国人居留地の山手75番地
に当たります。横浜第一パプテスト教会があったところです。


日本バブチスト発祥の地碑のある坂の対面に
プレ−トがあります。

〜代官坂〜
この坂は、山手の丘を越えて北方・本牧へ行く道で、箕
輪坂と称していましたが、坂の途中この地に横浜村名主
石川徳右衛門が居住していたことから、代官坂とよばれ
ています。
幕末開港前後の当主徳右衛門は、日米和親条約締結の
ための応接場の設営、食糧、その他の設備一切を掌りま
した。嘉永7年(1854)3月9日(4月6日)ペリ−が横浜
村に上陸し住民の暮らしぶりを視察したおり屋敷を訪れ、
徳右衛門が供応した様子が「ベルリ提督日本遠征記」に
記されています。その後徳右衛門は、横浜町惣年寄とな
り町政を担当しました。
明治7年(1874)、坂の上(山手町75番地)にバブテス
ト自由伝道教会のネ−サン.ブラウンが教会堂を建て布
教の拠点としましたが、火災で消失しその後、明治27年
(1894)ベンネットが横浜第一バブテスト教会と称し、教
会堂を坂の途中(現在 元町2丁目80番地)に移転しま
した。大正12年(1923)寿町に移転し、跡地に「日本バ
ブテスト発祥の地」の祈念碑を建立しました。

社団法人 横浜国際観光協会
 
塗装業



[塗装業発祥の地]の碑

場所:元町公園内。


[元町公園]

塗装業は慶応元年(1865年)3月4日付「ジャパン・ヘ
ラルド」に、「サイン・ペインター」の広告が掲載されてい
る。これが塗装業の広告第一号。
(資料:横浜開港資料館)

 1866(慶応2)年11月26日、関内で大火が発生し、それ
以後西洋建築の建物が建てられ、
ペンキ塗装の需要も高まっていったそうです。


広東省順徳県出身で、塗装の技術を上海で学んだ
招相記は谷戸坂の山手184番地に塗装店「相記」を
開き、多くの職人を抱えて、洋館や静養家具のほか、
船体なども手広く扱っていた。
 塗装業・西洋建築の分野で、華僑の人々が
横浜の街づくりに大きく貢献した。
(資料:横浜開港資料館)


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