INDEX
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■鉄道発祥の地 ■日本最初の洋式公園発祥の地
■灯台局発祥の地 ■日本テニス発祥の地
■西洋理髪発祥の地 ■ヒマラヤ杉が最初に植えられた地
■消防救急発祥の地 ■クリ−ニング発祥の地
■西洋医科歯学発祥の地 ■日本最初の邦字新聞発祥の地
■西洋医科歯学勉学の地 ■日刊新聞発祥の地
■日本洋裁業発祥の地 ■日本最初のプロテスタント教会

鉄道



[鉄道発祥の地]碑
場所:桜木町駅近くの関内寄りの高架下の広場。
〜鉄道創業の地〜
我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、この場
所にあつた横浜ステイシヨンと品川ステイシヨンの間で開通
し、その営業を開始しました。わたくしどもは、当時の人の気
概と努力とをたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝
統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望す
るものであります。
昭和42年10月14日
鉄道発祥記念碑建設特別委員会

1872年(明治5年)5月7日、日本で初めて
横浜〜品川間に鉄道が開通。この時は仮営業で、
途中に駅はなく、所用時間は35分でした。
神奈川−川崎両駅が開業したのは6月5日から。
9月12日、横浜−新橋間が全線開通し、
開業式が行われ、翌13日から営業が始まりました。
片道53分、一日9往復の運行だった。
途中駅は品川、川崎、鶴見、神奈川の4駅。
開業当時は横浜駅だったが
その後、桜木町駅に名称が変わりました。

3面に書かれている内容は、
1.当時の運賃、時刻表
2.当時の横浜駅
3.鉄道創業の地

創業当時の横浜駅が描かれています。
灯台局


「灯台局発祥の地」
場所:マリタイムから北仲橋を渡って左側で今は駐車場になっ
ています。記念碑は今はありません。
どこかに移転になったかも知れません。


[氷川丸桟橋にある白灯台]

横浜港口部に明治29年5月に「赤・白灯台」が設置された。
この灯台は関東大震災後修補され、赤灯台は当初位置に、
白灯台は氷川丸桟橋突堤に移設されました。これが横浜に
現存する最古の灯台です。

明治元年8月(1868年9月−10月)に洲干弁天官舎跡
に灯台掛の木工場が建設された。ここが、翌年1869年
7月に灯台局と改称し、全国各地の灯台建設の根拠地と
なった。明治4年8月(1871年9月−10月)に灯台寮と
改称され、灯台設備の試験や灯台保守要員の養成を行
った。


[横浜港内にある赤灯台]
西洋理髪



[西洋理髪発祥の地]碑
顔に「ZANGIRI」と書いてある。

場所:山下公園内。


記念碑の説明文。
〜ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする〜
安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか政
府の「断髪令」に先がけ、明治2年(1869年)横浜に我
が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米風「ザンギリ
頭」は文明開化の一翼を担うこととなった。
平成元年吉日
消防救急



[消防救急発祥の地]の碑
場所:旧中消防署日本大通消防出張所の跡地。
(現駐車場)

〜プレ−ト〜
プレートに描かれた「当時の救急車」
昭和8年(1933年)2月日本で初めてこの地(当時の山下町
消防署)に救急車が配置運用開始されました。


平成6年2月まで中消防署日本大通消防出張所として使用し
ていましたが、建物の老朽化により、消防出張所は、新築移
転されました。移転後、庁舎は解体され、 「消防救急発祥の
地」記念碑と「地下貯水槽遺構」が展示されています。

関東大震災時の画像




「地下貯水槽遺構」

場所:[消防救急発祥の地]の碑の横
西洋医科歯学



[我国西洋医科歯学発祥の地]碑
場所:中区山下町の駐労会館前。


碑の裏に記されている説明文
〜西洋医科歯学発祥の地〜
ここは、万延元年(1860年)歯科医師として最初に来日
した米国人ウィリアム・クラーク・イーストレーキ博士が、
来浜三度目の明治14年に歯科診療所を開設したゆかり
の地である。 博士は、明治元年二度目の来浜に際し歯
科診療所(所在地不詳)を開設し、献身的な診療活動の
かたわら日本人歯科医師の育成に努力を傾注し、日本
近代歯科医学の世界的発展の端緒を開く役割を担われ
た。 いま、イーストレーキ博士の来浜百二十五周年なら
びに、神奈川県歯科医師会創立60周年を迎えるにあた
り、博士の多大な功績を讃えその意義を後世に伝えるた
め西洋医科歯学発祥のこの地に顕彰の碑を建立するも
のである。

昭和60年11月吉日
社団法人神奈川県歯科医師会
会 長  加藤 増夫

日本人で西洋歯科医師第一号は小幡英之助。
小幡英之助は歯科医エリオットのところに学んだ。
西洋歯科医学勉学



[西洋歯科医学勉学の地]碑
記念碑の中央にはエリオット博士(左)と
パーキンス博士(右)のレリーフが刻まれています。

場所:山下公園前の通りから2本中に入った
通りの角にこの碑はあります。



 記念碑の説明文
右に日本語、左側は英語で書かれています。

〜西洋歯科医学勉学の地〜
エリオット博士は、居留地五十七番のこの地に歯科診療
所を明治三年より同七年まで開設し、外国人の歯科診療
に従事するかたわら、木戸孝允、新島襄、西郷従道を治
療し小幡英之助、佐治職を門下生とし指導されました。
同博士の帰国にあたり同診療所を引き継いだパーキンス
博士は明治十四年秋、帰国まで診療のかたわら西村輔
三、関川重吾、太田吉三郎、渡辺晋三、山田利充、林譲
治、黒田虎太郎らに西洋歯科医学の指導をされました。
これら両博士の門人が多数の本邦人に西洋医科歯学を
伝承し、今日の近代歯科医学の基礎をつくられた功績は
真に大であります。本会創立七十周年に当り、ここに、
「西洋歯科医学勉学の地」記念碑を建立して、両博士の
功績を讃える次第です。
平成七年五月吉日
神奈川県歯科医師会
日本洋裁業



[日本洋裁業発祥顕彰碑]

場所:ホテルサンポートの入口。


〜日本洋裁業発祥顕彰碑建立〜
碑文
 1863年(文久3年)英国人ミセス・ピアソンが横浜居留
地97番にドレス・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業
の始まりである その頃から在留西洋婦人は自家裁縫
のため日本人足袋職人・和服仕立職人を人仕事として雇
いこれにより婦人洋服仕立職人が育った
 以来130有余年、先人達の偉業を称え、その精霊をモ
ニュメントに表徴して永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥
の地たる横浜に、日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する
1995年 平成7年11月24日

日本の洋裁業発祥は、1863年(文久3年)11月27日
に開業した英国人ピアソン夫人のサムエル・クリフト支店
が最初である。この店のあった横浜居留地97番は今の
山下町97あたり。すぐ近くの本町通りの「ホテルサンポ
ート」の入口に発祥顕彰碑が平成7年に建てられた。
我が国初の洋式公園



[我が国初の洋式公園の碑]

場所:山手公園テニスクラブハウス前


山手公園は、我が国初の洋式公園として
1870年(明治3年)5月6日に開設されました。


碑の左にある説明板
説明文
〜日本最初の様式公園〜
横浜居住の外国人の間には山手方面に専用の遊園地を
望む声があり、慶応三年(1866)に外国公使団との間
で結ばれた「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」(慶
応約書)によって、その要求が幕府に認められました。し
かし、この中の公園計画は具体化しないで終わりまし
た。明治2年(1869)に居留民代表から改めて要求が出
されたのに対して、日本政府は山手妙光寺付近の土地、
約6千坪を、慶応約書で約束した土地の代替地として貸
与しました。公園の造成は居留民が行い、明治3年5月
6日(1870年6月4日)に開園したのが山手公園です。
明治11年(1878)からは居留外国人女性で組織される
横浜レディ−ス.ロ−ン.アンド.テニス.アンド.クロッケ
−.クラブ(横浜婦女弄麹社)が管理することになり、クラ
ブハウスとコ−トがここに設けられました。
横浜教育委員会
テニス発祥



[日本庭球発祥の地]碑

場所:山手公園入口に建ってます。

1876年(明治9)、ここ山手公園でわが国最初のローンテ
ニスが行われ、1878年にわが国最初のテニスクラブが誕
生しました。日本初の洋式公園である山手公園と、わが
国でのテニス発祥120周年を記念してこの記念館を設立
しました。


[テニス発祥記念館]

[クラブハウス]
現役で使われています。
わが国最初のヒマラヤスギ移植の地



横浜の名木、古木のヒマラヤスギ

場所:山手公園入口


ヘンリ−.ブルックのお墓は外国人墓地の中にあり、
1本のヒマラヤスギに守られています。



明治12年(1879年)頃、ジャパン・ヘラルド社のイギリス
人ヘンリ−・ブルックがインドのカルカッタから輸入し山手
公園に移植したのが始まり。その後、フェリス女学院、元
町公園、外人墓地等に移植され、全国に広まっていきま
した。

テニスコ−トを取り囲むようにヒマラヤスギが
植えられています。倒れたり枝を切られたりして、
直径1mを越す大木は今では数十本しか
残ってないようです。
クリーニング



[クリーニング発祥の地]碑

場所:谷戸坂の登り口左側

〜碑文〜
クリーニング発祥の地
 「安政6年、神奈川宿の人青木屋忠七氏、現在の5丁目に
て始めて、つづいて岡沢真次郎氏、横浜元町に青木屋を開
業、慶応3年、脇沢金次郎氏、この地を継承し近代企業化の
基礎を成した。この間、フランス人ドンバル氏、斯業の技術指
導および普及発展に貢献された。この業祖の偉業顕彰し、こ
こにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する。
 昭和48年11月吉日



フランス山全景:上は「港の見える丘公園」です
記念碑の場所は谷戸坂の登り口左側にあります。



日本最初の邦字新聞



[日本国新聞発祥の地]碑

場所:中華街関帝廟のすぐ近くの歩道上。



元治元年(1864年)6月28日、ジョセフ・ヒコが横浜で
手書きの「新聞誌」を創刊、翌年5月頃「海外新聞」と改
題し、定期的に刊行するようになった。 一般大衆を対象
に発行された日本最初の邦字新聞がこの「海外新聞」で
す。

[ジョセフ・彦]
  
ジョセフ彦は、兵庫県に生まれ、13歳の時に遠州沖で遭
難。米商船に助けられ、米国で教育を受けた。やがて横
浜領事館に通訳として帰国。


碑の左上に貼ってある新聞
「海外新聞」と書いてあります。


日刊新聞 ■

江戸後期には外国の新聞を翻訳した「海外新聞」などが
発行されたが、日本で初めての日刊新聞は、
明治3年12月8日に創刊された「横浜毎日新聞」です。
 当時の新聞記事には両替相場、船の出入航時間、
忘れ物、転居通知、居留地に住む外国人の
ゴシップなどだそうです。 横浜活版社の社屋が
近かったことから、農林水産合同庁舎の構内に
記念碑が建てられている。



日刊新聞発祥の地・記念碑のある
横浜第二合同庁舎(旧生糸検査所)


日本プロテスタント公会



[横浜海岸教会]
プロテスタント公会発祥の碑の敷地内あり、
普段は立ち入りができません。

場所:開港広場のすぐ側。

明治8年鋳造の鐘は今、鳴り響きます。

1871年(明治4年)5月にアメリカ人宣教師サミュエル・R・
ブラウンとジェームズ・H・バラにより、 現在の横浜海岸教
会の地に石造の小会堂が建てられました。1872年(明治
5年)、未だキリスト教禁制の時代であったにも関わらず、
日本人青年9人が洗礼を受け、日本初プロテスタント教会
である「日本基督公会」が設立された。翌1873年(明治6
年)にはキリスト教が解禁されるとともに信者は増大、
1875年(明治8年)に500人収容の大会堂が建設された
が、それがこの横浜海岸教会である。1879年にはこの教
会で日本人による初めてのクリスマスミサが行われたと
いう。本来の建物は関東大震災で崩壊したが、1933年
(昭和8年)に現在の会堂が再建されました。


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